「物語」の功罪について(2)
こんにちは、あなたの街の文系男子、トム・ヤムクンです。
前回は、「物語」という記述の様式が、どのようなメリットとデメリットを持つのか、ということについてお話ししました。
今回はその続きです。
「物語」に支配された近代以前
近代以前は、世界を把握する方法は古代の一時期を除き、ほぼ物語しかなかったといっていいでしょう。それが魔女狩りや宗教戦争などを引き起こしてきました。
ただそれは人類の発展のためには必要な一段階であり、また、それなくしてはそもそも科学的な思考も生まれなかったでしょう。
ふたたび力を持ち始めた「物語」
そして近代には完全に物語が完全に衰退した……とは言いませんが、近代化とともにその力が弱まったことは間違いありません。それにしても現代では、ふたたび物語の力が強くなっていると個人的に感じています。
周囲に一人も韓国人や中国人がいないのに、彼らを差別するような言動をネットで繰り返すような行動は、その弊害でしょう(出会ったこともないような人を差別するのって、非常に奇妙なことだと思うのですが)。
こうなってしまった原因はいろいろあるでしょう。不況が長くつづいたために、そのしわ寄せをモロに食らった層の不満がそうさせているとか。あるいは、客観的な判断をするための情報があまりにも多くあるために、いちいち取捨選択するのが面倒くさすぎるとか。
「物語に毒されメーター」
人が物語に毒されているかどうかは、その人が他人や、何かの事実を批判する際にもっともよくわかります。
「それは他人に迷惑をかけるからよくない」とか
「きみの行動は、こういうルールに反しているよ」
という批判をする人は、わりと客観的な視点を獲得している(物語に毒されていない)といえます。
対して、以下の批判をする人は物語に毒されているといえます。
「それは私は気に入らない」
「くだらねぇからやめろ」
「なんか、それって違う気がする」
このような批判って、「自分の趣味・嗜好に合わない」という意味しかないので、他人がそれにお付き合いする必要はまったくないはずなんです。
僕はバナナが嫌いですが、だからと言って他人にもバナナを食うな、とまでは言いません。
しかし、わざわざそれを口に出して言う、というのは、「自分の趣味・嗜好に周囲の人間も合わせるべきだ」と言っていることになるのです。
物語はあくまでも趣味・嗜好であると再認識しよう
みんながみんな、自分の「物語=主観にすぎない主張」を押し付け合ったら、世の中カオスです。
良質な映画や小説を楽しみつつ、人間関係ではあくまでも客観性を大事にしていきましょう。