物語との距離のとり方

みなさんこんにちは。クーラーが利いたショッピングモールが大好きなトム・ヤムクンです。
 
これまでしばらくのあいだ、「高校演劇の脚本を自分たちで書きたいときにやってはいけないこと」というシリーズを扱ってきました。
 
そして、その余談として今回は、「物語との距離のとり方」についてのお話です。
 
 
 

「キャラ」ってそんなに大事か?

近年、創作を語る際にさかんに「キャラ」という概念が過剰にもてはやされている感があります。そして、そのような風潮のなかで僕の提唱しているような「物語を段階を踏んで、作業的に書く方法」というのはどうも嫌われる傾向にあるようです。
 
しかし、この風潮に対して僕は言いたいんです。何を言いたいかって?
 
「ちょっと待った」ということをですよ。
 
たしかに「個性的な人物を書く」ということはどんなメディアの物語でも必要でしょう。しかし、それのみを偏重したところでよい物語は書けません。
 
素人がライトノベルを真似して「小説」と称するものを書き、その実、単なるアニメのパクリの名場面集のようになっている作品のなんと多いことか。そのような作品に限って、登場人物の詳細なプロフィールを書いていたりするのです。

 
 
 
 

カンタンに物語(ただし「キャラ」偏重の物語)を書けた気になれてしまう世の中

いったいどうしてこのような情報が生まれたのか?
 
まず、ライトノベルなどはテンプレート化された世界観や人物を継ぎ接ぎして作られることが多い、という特徴をもちます。
 
このためこのジャンルの作品は先行作品の踏襲になりがちですが、それは単なる二次創作に堕してしまうとともに、ライトノベルに親しんでいる人以外は排除されてしまいます。RPGをやったことのない人が、「魔王」だなんだと言われてもピンと来ませんよね。
 
あるいは仏教に親しみのない西洋人に「転生」の話をしてもよくわからないでしょう。
 
一方でこのようにテンプレ化されたジャンルにおいては、もちろん、素人が「それっぽい」ものを書くことが容易になります(作品の出来は別として、少なくとも精神的ハードルは低くなる)。
 
これが、「ライトノベル作家になりたい」という需要を過度に生み出すことにつながります。

 
 
 

なぜ物語にアイデンティティを預けるのか

※ここからかなりの偏見が混じります。
 
そして、このようなアニメ・ライトノベルといったジャンルに高い親和性を持つ人々は、まだまだ学校などの社会においてヒエラルキーが低いことが多いということもポイントです。
 
そのため、物語にアイデンティティをあずけてしまう、という事態が生じる。どういうことかといえば、現実の世界で報われない分、あわよくばライトノベル作家になることを目指して先行作品に耽溺し、なおかつ、それらの二次創作したような作品ばかりを書く、というスタイルの生き方をする、ということです。
 
(たしかに作家を目指す人の過渡的段階として、好きな作品のマネというのは必要ですが)
 
 
 

物語をシステマティックに書くってありえない

そのような方々が、僕の提唱するような「システマティックに物語を書く」という手法に対して決まって「ありえない」という反応をします。
 
このような人々の主張をまとめると、だいたい以下のようになります。
 
・物語を「作業的に書く」と「楽しくない」。私は楽しんで物語を書けないとダメ
・そういう書き方をするとストーリーばかりが重視されて、「キャラ」がきちんと描けない
・テンプレートに従って書くと、「型にはまった」作品しか生まれなくなる
 
単に技術の点だけから考えれば、「計画的」に書いたほうがカンタンに、また継続的に、短時間で書けるのに、あえてそれを否定するのです。
 
こういう人たちの真意は、おそらく以下のようなものでしょう。
 
「自分が好きな先行作品への愛情の発露として作品を書きたい・そしてそのことを評価されたいのに、システマティックな書き方をしては『情熱的』にではなく『冷静』な作品づくりしかできなくなる。
 
そもそも本能や情熱にしたがって物語を書くのは打算や計算によって作品を書くよりも高等な営みである。にもかかわらず、打算や計算を私の好きなライトノベルの世界に持ち込んで、それによって作品を書けと迫ることは、その世界を愛する私への『冒涜』である

 
 
 
 

しかし、その先にあるものは?……

しかし、しかしですよ。本当にそれでいいのでしょうか?
 
このような人々は「物語づくり」そのものを神聖視しているかのように振る舞うのですが、たとえばレシピに従った料理や決まりきった運指法を学んだ上でのピアノ演奏などを受け入れるのに対して、なぜ「作法に従った物語づくり」だけを特別視し否定しようとするのか、僕にはよくわからないのです。
 
物語づくりなんて、所詮、車の運転と同じただの技術です。むしろ、技術や作法を学び、それを基礎にして創意工夫をすることによって、先人たちは偉大な作品を生み出してきたのです。かれらの目標にしている現実に活躍しているライトノベル作家たちだって、おそらくそうしてきたはずです。
 
僕には彼らのこのような主張が、まるで「患者への優しさがあれば外科医には技術なんていらない」のような空論に思えてしまうのです。
 
 
 

崇拝は目を曇らせる

物語というのはすばらしいものですし、世界じゅうのあらゆる場所にあふれています。そして、人が苦しい思いをしているときにそれを勇気づけてくれたり、画期的な価値観を提示してくれる役割もたしかにあるでしょう。
 
しかし、だからこそ僕たちはそれに対するリテラシーを持たなくてはいけません。神のようにあがめるばかりでは、騙されます。
 
「これを買ったら恋人もできて宝くじにも当たりました」という広告に対して、無批判に「幸せの黄色い財布」を買ってしまうようになるのです。
 
また、そのような状態では書き手としても、その広告の「購入者の喜びの声続々!」という文章を書いた人を超えることさえできません。
 
そのような状態を脱するためには、物語づくりを技術として割り切り、解体し分解して、使いこなせるようにする必要があるのです。
 
本来は明らかに著作権法違反である二次創作の売り買いをおおっぴらにして、しかも、それを合法化しようとさえしているこの日本の状態では、フィクションの世界は尻すぼみになってしまうばかりだと思うのですが、いかがでしょうか?(もちろん、日本映画は日本語で撮影されるがゆえにハリウッド映画に比べて市場が非常に狭い、などの事情もあるでしょうが)

 
 
トム・ヤムクンでした。

トム・ヤムクン

ライフハックと手帳を駆使して作家を目指している人。得意分野は手帳と日本史。Twitterアカウント:@tomyumkung01 ※このブログはAmazon.co.jpアソシエイトに参加しています。