「物語」の功罪について(1)

みなさんこんにちは。あなたの街の文系男子、トム・ヤムクンです。
突然ですが、僕は小説家を目指している人です。村上春樹とか、万城目学なんかの路線を目指しています。
今日はその流れで、「物語」というものについてお話したいと思います。
 

物語は人の心にもっとも届きやすい伝達様式

ここで言う物語とは「フィクション」とか「小説」とかいう概念を含んだもっと広い枠組みの話で、「主人公の視点から、主観的にできごとや心理を描写する形式の伝達様式」くらいの意味だと思っていてください。大胆に言ってしまえば、ドキュメンタリーから詩や和歌まで含みます。
この「物語」は、「論文」とか「評論文」などの考証や客観性を重視する形式よりもよほど昔に、おそらく人類が高い知性を持った段階から生まれたものであり、もっとも原始的で、それだけに人の心に届きやすいもののようです。
進研ゼミとかがマンガ仕立ての勧誘レターを送ってくるのも、それが理由でしょう。「買いたい」という欲求に訴えかけるのにも、この原始的な手段は効果的です。

しかし、物語は麻薬でもある

物語の最大の欠点が、客観性を書く、ということです。
たとえば『スター・ウォーズ』では、ルークの父(ネタバレ注意!)であるダース・ヴェイダーの死が荘厳なトーンで描かれる一方で、ルークがブラスター銃でやすやすとストーム・トルーパーを殺してしまうことに関しては、まったく何のこだわりも描かれません。

命の重みという点で見れば、ダース・ヴェイダーもストーム・トルーパーも変わりないはずですが、主人公であるルークの視点からは、ダース・ヴェイダーは父親であり帝国軍の指揮官であるため、そのへんのストーム・トルーパーとはわけがちがうのです。そのため、両者は違う比重で描かれることになります。
物語のなかでは、主人公にとっての(すなわち作者や読み手にとっての)主観にもとづいて、登場する要素の重要性が決められています。すなわち、「あいつは悪い」「自分の欲求は正しい」などといった、主人公/作者/読み手 の感覚を無批判に肯定してしまう力を持つのです。
これがポイントです。
どういうことかと言うと、物語は自動的に「こいつは主役」「こいつは敵役」「この作品中では、アメリカの平和を取り戻すことが目的ね」というように、前提となる世界認識を最初からきっちり決めてしまうために、それ以外の見方を不可能にしてしまうのです。
もちろん、「敵役が悪に染まるに至ったエピソードがきちんと描かれるフィクションもあるじゃないか」とか、「あの悪役は最後には主人公に協力して死ぬじゃないか」というご意見は本質を突いたものではありません。

物語は楽しく適量を

第二次世界大戦時、アメリカの軍人たちにとって、日本兵というのは、民主主義と世界の平和を乱す、野蛮な黄色いサルでした。
ただ日本兵は一方で、そのへんにいる普通のおじさんであり、終戦で兵役を終えたあとは子どもを大切にしてご近所の顔色を伺いながら、飲み屋で友人とバカ話に花を咲かせる小市民にすぎないのです。
しかし、「アメリカがイエローモンキーと戦って太平洋に平和を取り戻す」という趣旨の映画があったとすれば、上記のような日本兵像は「この物語」を逸脱しなければ獲得できません。これがすなわち、物語が客観性を欠く、ということです。
この仕組みに巻き込まれないために肝心なのは、「自分が物語による世界認識に無意識に染まってしまっている」ということを自覚することです。現代社会で糖や油を、健康的なレベルを越えてまったく摂取せずに生きることは不可能ですが、しかし、自分が糖や油を多く摂取している、ということにはまず、気づかなくてはなりません。
次回は、このことをさらに掘り下げてお話したいと思います。
(次回につづく)

トム・ヤムクン

ライフハックと手帳を駆使して作家を目指している人。得意分野は手帳と日本史。Twitterアカウント:@tomyumkung01 ※このブログはAmazon.co.jpアソシエイトに参加しています。