作劇のマニュアル化は「自由」を奪うか
みなさんこんにちは、トム・ヤムクンです。
かねてから、「高校演劇の脚本の書き方」についてお話しています。
高校演劇の脚本を自分たちで書きたいときにやってはいけないこと (1)準備編
高校演劇の脚本を書く際にぜひハリウッド映画をたくさん観てほしい理由
前回は、「ハリウッド映画の脚本みたいに、高校演劇の脚本もマニュアル(詳しくは前回の記事参照)に沿って書こう」ということをお話しました。
マニュアル化された作劇に対する、よくある反発
「マニュアル化」=「みんな同じ」?
このように「マニュアルあるいはセオリーに従って物語を書こう」という主張に対しては、ある決まった角度から、よくあるパターンの反発がなされます。
よくある反発とはなにか
「みんな同じような作品になってしまう」
「個性を発揮できない」
「書いてて楽しくない」
といったものです。
しかし、これらはだいたい誤解ですし、そうでないとしたら根本的に「物語を書く」ということの目的を見誤っている場合が多いと感じます。
「作品は人格そのもの」か?
たぶんこの人たちは、自己承認、あるいは他者から承認されるための手段として物語を書いているのでしょう。これが誤解の素その1です。
誤解の素その2は、「物語の独自性」を「書き手自身の個性であり、それはその人の人格そのものである(だから無制限に尊重されなくてはいけない)」というものです。
この問題についてはまたまた、別の機会に書かせていただきたいと思います(このブログもしくはnoteのほうで)
徹底した「雛形」のトレース
「みんな同じになってしまう」というときの「みんな」の正体
さて、上記のような誤解が正されたとしても、まだ「マニュアル的に物語を書くこと」に関する問題は残ります。
そこにもうひとつの誤解(誤解の素その3)が絡んできます。「決まった手法に従って物語を書いたら、みんな同じような話になってしまう」という部分です。ただここでいう「マニュアル的」に書いて同じになってしまうのは、作品の内容ではなく構造です。
つまり、
・すべての作品で「探偵が真犯人を崖で追い詰めるシーンが書かれる」わけではなく、
・すべての作品で「主人公が生まれ変わったことを試され、すべての葛藤に決着がつくシーンが書かれる」だけなのです。
「葛藤への決着」の意味
その「すべての葛藤に決着がつくシーン」は、善と悪との戦いであることもあればノルマンディー上陸作戦であることもありますし、主人公が好きな異性に告白するシーンであることも、有名な料理評論家にコックである主人公の料理を食べさせるシーンであることもありえるのです。
構造が同じでも内容は違う
もう少し詳しくお話すると、まず、
・構造と内容(趣向)は別物である
という認識をあらためて確認しておく必要があります。
その上でこちらの表をごらんください。
●スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望
・主人公が→ルーク・スカイウォーカーが
・生まれ変わったことを→フォースの力を信じ、ジェダイの騎士としての第一歩を踏み出したことを
・試され→デス・スターへの攻撃で証明する必要に迫られ
・すべての葛藤に→デス・スター攻撃作戦およびルークのジェダイとしての素質の有無の判定が
・決着がつく→成功に終わる
●ハリー・ポッターと賢者の石
・主人公が→ハリー・ポッターが
・生まれ変わったことを→死んだ両親を偲ぶのではなく現実の危機に向き合える人間に成長したことを
・試され→クィレル(ヴォルデモート)との対決で証明する必要に迫られ
・すべての葛藤に→復活をめざしてホグワーツに入り込んでいたヴォルデモート、またその手先となっていた正体不明の人物(クィレル)を
・決着がつく→撃退する
どちらもそれぞれまるで別ことを描いているようでいながら、構造は共通しています。このように、多くの有名作品が同じ「構造」を持っていますが、しかしスター・ウォーズを観た人にとってハリー・ポッターを観る価値がないのかというと、そうとも言い切れませんよね。
その典型的存在がスターウォーズ
スター・ウォーズシリーズは、観たことがあるかどうかはともかくとして、その名前を知らない人はおそらく日本にはほぼいないでしょう。
このスター・ウォーズこそ、ジョゼフ・キャンベルという学者の書いた神話研究をもとに、多くの神話に共通してみられる神話のストーリーの構造を取り入れた作品です。
そういった意味では、「マニュアル的作劇」の象徴存在のひとつといえます。
というわけでこの続きはまた次回。次は「神話のように物語をつくること」の意味に迫ってみたいと思います。
トム・ヤムクンでした。