「処世術」と「道徳」を混同する日本人

日本のみなさん、そして世界のみなさん、お世話になっております、トム・ヤムクンでございます。
前回の記事では、「金持ちの社長と付き合っていることとか、プライベートジェットでW杯を観に行ったこととかは、むしろ積極的にアピールすべき」というお話をしました。

しかし、あの女優さんに対しては「そうは言っても、女優はそういう『金持ちの男を捕まえてウェーイ』って感じのことをおおっぴらにすべきでない」というご意見も多く見られますね。

でも、冷静に考えてみてください。いったいどうして、「金持ちの男を捕まえてウェーイ」っていう自慢をしてはいけないのでしょうか?

実はこれは、「会社の飲み会には君の人間関係と将来のためにぜひとも参加すべきだ」というおせっかいなおじさんたちのアドバイスと、同じベクトルのものです。

 

会社の飲み会に行かないのって、ナシ?

道徳的見地から考えてみましょう。

「会社の飲み会には参加すべき」という命題は、果たして道徳的に妥当なものなのでしょうか?

ある会社に、ある新入社員がいたとします。彼/彼女は「新入社員としての責任を果たすため」、プライベートな予定を差し置いて会社の飲み会に参加しました。

ただ、これによって果たされる責任といえば――

 

・飲み会を主催した先輩の顔を立てる
・飲み会の場で中心的人物となる上司の顔を立てる

このくらいですね。特に何かしらの道徳的責任を果たしているとは思えませんが……

むしろ、プライベートな時間を行きたくもない飲み会に、職場の圧力によって参加させるわけですから、この上司や先輩のほうが、道徳的によくないことをしている、とさえ言えます。

「いや、飲み会に参加することは大事だよ。チームの輪を保つために飲みニケーションは必要でしょ。それに、ここで上司や先輩と仲良くなっておけば、仕事にもプラスなんだから、ぜひとも行きなさい。君のためだ」

はいはい、出ましたよ。

こういう意見は人類発祥いらい、至るところで耳にしますが、よく考えるとこれは「処世術」ではあっても「道徳ではない」ことにお気づきでしょうか?

●処世術とは
→自分が得をするために人間関係上、やっておくといいテクニック

●道徳とは
→善悪を区別する規範のことだが、ルールや法律のようにはっきりと示されることはなく、その内容は文化によって変わる

「将来、自分にプラスになるから飲み会に行っておくべきだ」というのは、どう考えても処世術です。べつに飲み会に行くも行かないも個人の自由であり、どちらを選んでも他者に迷惑をかけるわけでもありません。

また、プライベートの予定を大事にすることと、上司にコビを売ることを天秤にかけて、前者をとったところで、特に非難されるいわれはありません。

したがって、これは「道徳」ではなくあくまで「処世術」であるといえます。

どうしてこれを問題視するのかというと、世間にはこのような「道徳の皮をかぶった処世術」が多くあり、これが、非常に大きな弊害を生み出しているからなんですね。

 

 

 

大公開 これが「道徳の皮をかぶった処世術」だ!

弊害1:「お前のため」という名目で他者の意志を強制される
弊害2:道徳的判断よりも功利的判断を優先する、という風潮を生み出す
弊害3:言った側の人間性が疑われる

つまり、「飲み会に出るのはお前のためだから」という理由で、本来行きたくない飲み会への参加を断りづらくし(弊害1)

「会社で生き残るには理不尽な先輩に逆らわないことが先決」という傾向を助長し(弊害2)、

そして、この後輩は「あの先輩、飲み会に人を集めたいからって処世術×道徳混同レトリックを駆使してきたな。これからはもう信用しない」と思う(弊害3)といったように、さまざまな悪影響を引き起こすのです。

処世術はあくまで、その人が任意で駆使するもの。「そんなテクニック、必要ない」と思えばそれまでのはずなのですが、これを道徳とあえて混同させることで、他者に意志を強制しやすくなります。よい子のみなさんは、そのような大人になると信用をなくすのでぜひ避けましょう。

トム・ヤムクンでした。

トム・ヤムクン

ライフハックと手帳を駆使して作家を目指している人。得意分野は手帳と日本史。Twitterアカウント:@tomyumkung01 ※このブログはAmazon.co.jpアソシエイトに参加しています。