高校演劇の脚本から取り除くべきあの場面
みなさんこんにちは、あなたの街の文系男子トム・ヤムクンです。
今日も高校演劇の脚本についてお話ししてきたいと思います。
突然ですがこれを読んでるみなさまは村上春樹の小説を読んだこともあるでしょうか? 独特の語り口や、だいたい「僕」という一人称の人物が主人公でそれが語り手であるということなどが、特に彼の初期の作品の特徴です。
初期の多くのムラカミ作品がこういう形での叙述である以上、最初から最後まで主人公の名前が明かされないということも多いわけです。
これは夏目漱石などに代表される近代文学でも同じことで、馴染みのない人には珍しいと思われることかもしれないですが、実は主人公が「私」「僕」「俺」としか表現されない小説は世の中にゴロゴロあります。
ところで高校演劇の脚本を書く際に、「自己紹介の場面」というのを作った記憶はないでしょうか? 今回はこの件についてのお話です。 僕の言いたいことを簡潔にまとめますと、「自己紹介の場面など作ってはいけない」ということです。
一体どういうことか? よくある自己紹介の場面というのは以下のようなものでしょう。
主人公の前に何か事件が起こってキーパーソンとなる人物などが現れ、主人公に対してちょっと詳しい話をする前に、主人公のほうから「その前に自己紹介しませんか? 私はなんちゃらです」「俺はなんちゃらだ」とかいうあれです。
これ、観客からしたらめちゃくちゃ気になりませんか? なりません? 僕はなります。 一体何のためにこういう場面が設けられていると思いますか?
それは「主人公が、目の前に現れた不思議な人物の名前を知りたいから」ではありません。
「作者が、とにかく観客に登場人物の名前を伝達しなければという強迫観念に近い欲望に駆られている」ことから生まれたものです。
つまり「登場する人物の名前――特に主要人物の名前は観客に覚えてもらわなくてはいけない」という欲求です。
しかし根本的な話として、そもそも人間が日常生活の場面で自己紹介をする場面っていうのはそれほどないですよね。 新しい職場や新しい学校に行った時か、ご近所に新しい人が引っ越してきた時ぐらいしかありません。
そして、脚本のうえでドラマがはじまるとき――イケメンに出会ったタイミングとかタイムマシンで江戸時代に行ってしまった時に「じゃあまず自己紹介から」なんて牧歌的なことをする人はほぼいないです。 何らかの理由で名前を知る必要があるとしても、「自己紹介しましょう」なんていうかしこまった言い方はまずしないでしょう――「お名前教えていただけますか?」的な言い方ならまだわかるのですが。
どうして「自己紹介」という形式にここまでこだわる人がいるのか? 僕の予想ですが、単に「そういうものだ」と思っている、あるいは主人公や主要人物の名前を一括で読者に伝達したいからでしょう。
先ほどの村上春樹の例を見てもわかるとおり「主人公だから」「主要な人物だから」といって名前を明かす必要は必ずしもないということを覚えておいてください。
いちおう名前をつけてもいいですし、その名前に重要な意味があったりドラマ上の効果を上げている場合は別です。
「名前に意味がある」というのは例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように主人公の家系が物語の大事なキーになっていたり、それこそ前近代の物語で主人公が徳川家の人物だったりフランス王家の人物だったりした時は、名前なくしてはドラマの成立はあり得ないでしょう、という意味です。
「ドラマ上の効果を上げている場合」というのは、『カイジ』などのように名前が物語のキーになることはないんだけれども、名前をつけることによってその人物が強烈な存在感を放つという場合です。
対して、たとえば『シン・ゴジラ』の主人公である矢口蘭堂に関しては、(政治の世界が舞台なので多少難しくはあるでしょうが)彼自身が自分のことを「僕」や「俺」「私」と呼び、周囲の人物が「お前」「課長」とか彼のことを呼んでいても全然成立する世界観なのです。
なんでこんなことを話してるかといえば、この自己紹介の場面という、とってつけたような作者の都合でしかない場面を挿入することによって、時間の無駄になるし、ドラマの進行を遅らせ観客にも違和感を与えてしまうというのを危惧しているからです。
今あなたが書いている脚本に自己紹介の場面があったとしたら、ぜひぜひ再考してみてください。
トム・ヤムクンでした。