神話が「物語」としてなぜすごいのか ~高校演劇の脚本シリーズ~
こんにちは、トム・ヤムクンです。
「物語を(高校演劇の脚本を)マニュアル的に書く」ことについてのお話の第3回目です。
これまでのお話はこちらです。
《前々回の記事》→高校演劇の脚本を書く際にぜひハリウッド映画をたくさん観てほしい理由
《前回の記事》→作劇のマニュアル化は「自由」を奪うか
なぜ「神話的」に語る必要があるのか。
「どうして映画(というかそもそもは演劇)の話をしているのに神話なんて突拍子もないものの話になるのか」という疑問を抱く方も多いでしょう。
ここで認識していただきたいのは、
・神話の多くは非常に長い年月のなかで培われてきたものである
・歴史的には文芸のほとんどは文字に書かれず、口伝えされてきたものである
という2点です。
神話の息の長さ
確認できる最古の神話は紀元前3500年ごろのものだそうですので、少なくとも5500年以上は神話というものが人類のなかで語り継がれてきたわけです。僕は「ただ古いからいいのである」と言う気はなくて、それだけ長い年月をかけて語り継がれてくると、自然に物語というものは洗練された形になるのだ、と言おうとしています。
物語のほとんどは口伝え
さきほど「確認できる最古の神話は約5500年前のもの」と書きましたが、どうして「確認できる」のかといえば、文字になって残っているからです。しかし、その文字というのは長らく、神官や貴族などの知識階級の占有物でした。
それが活版印刷の普及、産業革命によって国民を熟練労働者に育てる必要性などから、識字率が上がり、先進国ではほとんどの人に文字の読み書き能力が備わるに至ったのです。
ではその間、人々は物語に触れてこなかったか、というとそんなことはありません。民話や神話、噂話など、人々の生活にはそこそこの量の物語があふれていました。そして文字の読み書きのできる人が少ない以上、それは口伝えだったはずです。ある資料では7万年前から、人々は宗教的営みをしていたとのことです。
口伝えの物語は劣化するか
それにしても「口で伝えられる物語なんてどんどん劣化していくんじゃないの?」と考える方も多いことでしょう。
そのとおり、たしかに情報というものは人から人へ伝えられるに従って背びれ尾ひれがつき、さらにそこに含まれた要素がいいように改ざんされたり、抜け落ちたりしていきます。
「男女が辻で挨拶を交わしていた」というだけの「目撃情報」が、3日後には「二人は互いに既婚であるのに、深い関係にある」という噂に化けていることもありえます。ジャーナリズムが確立していない前近代では、そのような傾向が非常に強かったことでしょう。
しかし、口伝えは「事実を伝えるニュース」としては劣化するが、「物語」としてはむしろ洗練されるのではないかと思います。
1.「男女が挨拶していた」という情報
2.「男女が不倫している」という情報
聞く側としてはどちらが面白いでしょうか?
もちろん2.ですよね。不倫には「この危うい関係が今後どうなるか、破綻するのか、ハッピーエンドに落ち着くのか」という、波乱の予感が内在していますが、「挨拶」はそうではありません(笑)
人々は、自分たちがより面白いと思う方向に話を脚色していく習性があります。
このようにして何千年と脚色を積み重ねられていった結果、それぞれの地域や民族で、その神話というものは面白く、洗練された、人々の求める形式に姿を変えていったわけです。
まとめると、口伝えの物語というものはむしろより面白い方向に進化していくものだ、ということです。
マニュアル化によって差異化できる
「雛形をトレース」というのはマンネリを産まないか?
それでも、疑り深い方はこう思うでしょう。「いくら物語の多くは口伝えで、そのほうがうまい形になるにしても、何でもかんでも神話っぽい同じ内容にしたら読者や観客は飽きるだろう」
しかしご心配には及びません。以前の記事(作劇のマニュアル化は「自由」を奪うか)で申し上げたように、同じになるのは「内容(趣向)」ではなく「構造」です。
そしてさらに言えるのは、「観客(読者)」を飽きさせないための工夫というのは「最後に、成長した主人公が敵(障害)と最終対決をする」というところではなく、それが「ルークが狙撃困難なデス・スターをフォースによって破壊する」なのか「みぞの鏡から賢者の石を取り出す」なのか「バルス」なのか、というところです(もちろん、クライマックスだけでなく、作品のあらゆる場面にこのことは当てはまります)
意識をしないほうが、作品は同じようなものに収斂していってしまう。
ここまでのお話から、「(少なくとも娯楽作品であるならば)どのような物語でも大まかな構造的は同じであることが適切なこと」が存在することはわかっていただけたかと思います。そして「オリジナリティ」とは「構造」ではなく「趣向」に宿るということも。
それでも、「いや、自分はあくまでも完全にオリジナルでいく」という方に悲しいお知らせをお伝えしなくてはいけません。
それは「どうせ同じになること(構造)」を同じにしようとせず、すべてに「オリジナリティ」を盛り込もうとすると、全体をコントロールしきれなくなり結局はプロの作品の模倣に陥ってしまいがちだ、ということです。
このことは実際にそういう経験をしないとなかなか想像しづらいかと思います。
ただ、「別のものとちがうもの」を作るならば、まず「世の中の多くのものは、どこが共通していてどこが違うか」を意識しなくてはなりません。
オリジナリティある作品には必ず「他とは違う部分」があるわけですが、対して「他と結局は同じになる部分」もあります。
しかし、「どの部分はこれまでの作品を踏襲して、どの部分に独自性を盛り込むか」ということをわきまえていないと、「登場人物の血液型」とかどうでもいい部分にばかり気を取られて、肝心なところで見事に「パクリ」をやらかしてしまう、ということもありえるのです。
次回に続きます。