高校演劇の脚本を自分たちで書きたいときにやってはいけないこと(2)~実践編~

しばらく何回かにわたって、このシリーズをお送りしていきたいと思います。

 

高校演劇では脚本に関して、プロの脚本を上演許可を得た上で使う、という方法のほかに、「自分たちで脚本を書く」という選択肢があります。その危険性について、前回、お話ししました。今回はその続きです。いよいよ、実際に脚本を書く段階での落とし穴についてご説明していきます。

 

 

 

「キャラが大事」という幻想に惑わされてはいけない

インターネットでよくお話をしている「物語を書きたい」「物語の書き方を教える」と公言するおにいさんおねえさんたちは、大概、ライトノベルを書きたい人です(僕の偏見)――特に、アマチュアの人たちは。

 

で、そういう人たちがよく言うのが「キャラが何より大事」というスローガン。ですがこれを鵜呑みにすると、弊害がいくつかあります。

具体的に言えば、くれぐれも「登場人物のプロフィール」なるものに時間を割くことがないようにしましょう。これはおそらく一部のライトノベル好きの方々のなかで推奨されているやり方で、「各登場人物の年齢や血液型、趣味などを、履歴書のように詳細に書いてそれをもとに本文を書け」というものです。

 

登場人物のプロフィールがおもしろいかどうかと、作品がおもしろいかどうかはまったく別問題。どのみち、それをお客さんが目にすることはありません。(ましてやその登場人物を「どんな絵で表現するか」を考えることなど、まったくの無意味です)あなたの書くべきものはどこかのアニメの設定資料集ではなく、脚本のはずです。

「キャラクターが勝手に動く」というのも幻想です。前回の記事でも書きましたが、脚本を書くのはあくまで作者であります。「キャラクター」は、上演を見た人の頭のなかにあらわれる幻影にすぎません。その幻影を、うまく操ることができるかどうかが、作家の腕の見せ所なのです。

ですから、思わせぶりな伏線を張るだけ張って、結末を考えずに本文を書き始めて、「あとはキャラたちがあるべきところに物語を導いてくれるはず(-ω☆)キラリ」などと楽天的に考えていると、あなたを待っているのはあふれんばかりに回収できない伏線の束と、酷評の嵐です。

 

「テーマ」を安易に選ぶと危険

陳腐でありふれた道徳の押し付けにならないように注意しましょう。

テーマとは平たくいえば「その作品を観終わったあとに、観客の心に残ってほしい考え」であり、作品ごとに多様なテーマがあります。

たしかにテーマには「普遍性」が求められ、また「主人公が試練ののちに成長して獲得する価値観」ですので、「教訓」っぽい側面がそなわりがちなのですが、この「テーマ」に関しては多くの人が実は思考停止になり、道徳の教科書に載っているような陳腐なものを選びがちになります。

 

くれぐれも「夢が大事」と連呼するだけの男女5人の群像劇とか、「戦争の悲惨さ」と連呼するだけの戦争ネタはやめましょう。日本の観客はそういうものをもう高畑勲と北川悦吏子の時代に見飽きています。テーマにも独自性が大事です。

映画『スパイダーマン』(サム・ライミ版)の「テーマ」は「大いなる力には大いなる責任が伴う」ですし、『ラストサムライ』は「明治になって失われつつあった武士道の賛美」です。前者はどんな文化にも訴える力がありますが、後者に関しては少なくとも「武士道」という概念を知っている人でないと理解できません。
逆に言えば、「夢」「愛」「平和」レベルの非常に抽象度の高いものでなくても、テーマに選ぶことができる、ということです。

 

調べ物せずに書けると思ってはいけない

くれぐれも自分のこれまで鑑賞した作品からもらってきた知識のみで書かないようにしてください。

 

最悪の場合、丸パクリあるいは二次創作に、よくても「どこかで見たものの焼き直し」にしかなりません。

特に、テレビゲームとかスマホアプリのゲームとか、一部の新選組系のアニメだけの知識で幕末ものや戦国ものを書いたりすると、恥をさらすことになりかねません。

また、「ある既存の作品にしか使われない単語」を、一般的な言葉だと思ってあなたの作品に書くと、非常に恥ずかしい思いをします。他の人(できるだけあなたとは全く違うジャンルの作品を観たり読んだりしている人)にチェックしてもらってください。

僕が昔から気になっているものに「あやかし」という単語があります。ある人(アマチュア)が自分の作品のなかで座敷わらしを「あやかし」と表現していてびびったことがあるのですが、「あやかし」というのは「海に出てくる妖怪」って意味ですからね(座敷わらしは「座敷」にいるので、当然、陸上のもの) 

※Wikipediaの記事参照

ひとまずはWikipediaに載っている関連知識くらいは調べておきましょう。

 

 

セリフで「説明」してはいけない。しかし、セリフでわからせなくてはいけない

これに関してはまず例を出してお話ししましょう。

☓悪い例:

「俺には夢があるんだ、東京に行ってミュージシャンになることさ」

○よい例:

「おまえ、オーディション受けるっていってたけどあれどうなったの?」

「ああ、ダメだったよ」

ということです。

わかりやすさは大事ですが、それを大事にしすぎて「くどさ」に陥ってはいけません。

これをしてはいけない理由は、観客は「直接与えられた情報」ではなく、「自分でさまざまな手がかりのもとに察した情報」を「自然なもの」として受け入れるから。
そうではない「説明された不自然な情報」が積み重なると、まるで人は「幸せの黄色い財布」の広告を読んだときのようにその物語を信用しなくなるのです。

また、クライマックスで主人公がなにかに取り憑かれたように3分くらいの長いセリフを語りだして、それで物語に収拾をつけた気になったり、感動を強要したりするのもあまり褒められたことではないでしょう。

 

「その作品のみで通用する固有名詞(あるいは普通名詞)」を安易に出してはいけない

その作品のどこかで説明をしたとしても、やはり、その作品でしか通用しない固有名詞というのは最小限にとどめたほうがいいでしょう。これも、多くの人がやってしまいがちです。

 

例としては以下のような記述が挙げられます。

「く、敵のバランゲランタイプはウッチョンペールか。ここはニスメアンでコルウポッポをサヒュッて、ウサブトにヘラグラリアをヴェヴェイするしかなさそうだな」

「ユマグレ! ホンファウヨーゴもドドグっています!」

「いや待て! トトポコンダがジュコドキシているぞ」

もう、休憩のための数分間か、拷問か、「この劇はつまらないのでいますぐ会場をあとにしてください」というサインにしか思えません(笑)

『天空の城ラピュタ』などを観ると、 独自の固有名詞および普通名詞というのは、僕の記憶している限りではたった4つです。(もちろん他にもあるかもしれませんが)

  • 飛行石(普通名詞?)
  • ラピュタ(固有名詞→地名であるが文明の名前としてもとらえられる)
  • 空賊(普通名詞?)
  • バルス(呪文だから間投詞かもしれません)

独自の人名・地名がフィクションのなかで比較的、許容される理由は、おそらく文脈上、それが人名や地名であることがわかりやすいことと、そもそも人名・地名には固有名詞しかほぼありえないからでしょう。

このように、多くの人の支持を得ている名作は、たとえ現実世界に存在しないような設定や、印象的な世界観づくりに成功していても、じつは「独自の名詞」というのは驚くほど少ないものなのです。理由は単純で、「観客にわからない名詞を出しても、話を理解してもらえないから」です。

 

「世界観」というのは、「観客の知らない造語を次々と繰り出して煙に巻くこと」ではありません。

 

その作品世界で、世の中や人物の行動にあらわれる法則のことであり、たとえば「ドラえもんの道具は万能だが使い方を間違えると痛い目を見る」とか、「スター・ウォーズにおいてはあまり食べ物の心配はされない」とかそういうことです(対して『ロード・オブ・ザ・リング』では食べ物のことをかなり主人公たちは気にしています)。

 

この話を追求しだすとかなりの文量になってしまいそうなので、このへんでやめておきます。

 

 

というわけで、2回にわたって「高校演劇で脚本を自作したいときにやってはいけないこと」をお話ししました。

僕自身は、小説家を目指している人間です。それは僕が人生でもっとも重視する目標ですが、その道を目指すようになったそもそものキッカケは高校で演劇部に入っていたからです。

いま、それなりに物語の書き方を学んできたこの目で当時の状況を振り返ってみると、まだプロになっていない自分でも、アドバイスできることはいくつかあるなと感じ、今回の記事を書かせていただきました。

迷える高校生の皆様のお役に立てれば幸いです。

今回はくどくどと「高校演劇の脚本を書く際にやっていはいけないこと」についてお話しましたが、「やっちゃだめなことだけ言われても、じゃあどうすればいいのかってのはわかんないよ」とお思いでしょう。

そこで次回は、高校演劇の脚本を書く際に、「最低限したほうがよいこと」に関してお話しします。

 

トム・ヤムクンでした。

トム・ヤムクン

ライフハックと手帳を駆使して作家を目指している人。得意分野は手帳と日本史。Twitterアカウント:@tomyumkung01 ※このブログはAmazon.co.jpアソシエイトに参加しています。