種田山頭火の歌で「分け入」っているのは誰なのか問題と日本の国語教育
筆者=主人公なのか?
愛を知る県・愛知県出身のトム・ヤムクンです。
今日は「国語」についてのお話。
日本の国語教育について、昔から非常に気になっていることがあるんです
こういう国語の問題、見覚えありませんか?
問題:この短歌のなかで、「分け入」っているのは誰ですか?
正解:筆者
僕はこの種の問題に、違和感を覚えまくっていました。
何がおかしいのかって?
裁判長、陪審員の皆さん、それは「筆者」ってところですよ。
僕はこれ、「筆者」ではなくて「主人公」なのではないかと思うのです。
いま現在、このような国語教育が続いているのかはわかりませんが、僕が中高生のころは普通にありました。
「いやいや、筆者でも主人公でも、大した違いはなくない?」と思われた方もいるかもしれませんが、
これが短歌ではなく、漫画だとしたらどうでしょう?
問題:『ドラえもん』のなかで、「ねえドラえもん、なにか出してよ」と言ったのは
誰ですか?正解:藤子・F・不二雄
これがおかしいことは誰もがわかりますよね。
漫画や小説の主人公は「イコール作者」ではないのに、短歌中の1人称がイコール作者であるとするのは、きわめて不合理ではないかと思うのです。
古代の和歌だって性別の壁をカンタンに越えていた
ただ、僕はこうも聞いたことがあります。「近代の短歌では原則的に筆者=作者とみなす」と。どうもそういうルールは本当にあるらしいですね、一部の派閥で。
しかし短歌の伝統として、そういう暗黙の了解があるというなら、それを教えるべきでしょう。
そして、「そのルールが適用されるのは、いつの時代の誰の作品までなのか」ということまで含めて教えるべきです。なぜなら、短歌のもとである古代の和歌の段階では、以下のような歌が普通にあったからです。
秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ
(秋の田んぼの刈り取られた稲を見張る小屋で、屋根の網目が粗いので衣の袖が
露に濡れてしまう・天智天皇)
(当サイトに天智天皇の著作権を侵害する意図はなく、あくまで学術的な考察のための引用であることをご理解ください)
これは、天智天皇が農民の農作業の苦労を思いやり、詠んだ歌だと言われています。しかも、「わが衣手」と言っているわけですから、どう考えても「1人称=主人公」であることは疑いようがないのです。(和歌ではあまりないでしょうが、1人称すなわち語り手が作者でない可能性だってあります)
問題は「主人公=作者」であるかどうかということなのですが、天智天皇は父親が天皇で、母親も皇族(のちに天皇)ですから、生まれながらに皇子として扱われていましたし、農民としての生活を送ったことなどありません。
どうやらこの歌では「主人公=作者」ではないようです。
まあ、この歌に関しては「本当の作者は天智天皇ではない」という説もあるようですから、もうひとつ例を挙げましょう。
夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり
(夜が更けて愛する人を思っているとなかなか夜が明けず、寝室の隙間さえも
つらいものに思える・俊恵法師)
これは恋人を「寝室で待っている」のですから女性の歌です。古代貴族の恋愛が「男性が女性のところに通う」方式だったのはみなさんもご存知でしょう。
で、「俊恵法師」の性別はどちらかといえば、男性です。
さあこれで、短歌が「和歌」であった時代には、少なくとも、「主人公=作者」が絶対のルールではなかったことはおわかりでしょう
だから、上記のように
Q:『分け入』ったのは誰?
A:筆者です
というような問題を出すのなら、
「何年から何年までの時代の短歌(あるいは~派の作者の多くの短歌)に関しては、『主人公=作者』と理解するという暗黙のルールがあった」
のように教えておかなければ、フェアな問題とはいえません。
(こんな教え方をしても例外はいくらでもあるでしょうが)
まあ文学史上の知識としてそれを教えたとしても、ひとまず原理的に「1人称は主人公であり、それ以上であるかどうかは個別に考えるべき」と教えたほうがよいでしょうね。つまりそんなものは、作者の意志によってどうとでもなるわけですから。
それでも1人称はあくまで「主人公でしょ」
たとえ作者が「1人称=わたし」と考えており、しかも、その短歌で描かれた体験を実際にしていたとしても、書かれた以上はそれは「主人公」であり、「作者」はあくまでモデルに過ぎません。
『金閣寺』の主人公の僧侶が、現実に金閣寺に1950年に放火した犯人そのものではないように、あるいは、村上春樹作品の主人公の「僕」たちが、村上春樹自身ではないように。
「まったく、そんな細かいことで目を血走らせちゃって、トム・ヤムクンったらヒマ人なんだから」とお思いのあなたこそ、日本の誤った国語教育に毒されていると考えたほうがよいでしょう。
この問題を放置しておくと、けっこう重大な事態を招くことになりかねないのです。
フィクションはフィクション。それだけ
どうしてこんなことを気にするのか、というと、言葉の虚構性を日本はあまりに軽視しすぎている、と感じるからです。(この背景には言霊信仰とか、深い歴史的背景がありそうで非常に面白いテーマなのですが、ひとまずいまは置いておきます)
これを放置しておくと、「フィクションの登場人物の悪行を理由に、書き手が批判される」というとんでもない事態につながります。
たとえばネット上のブログに書かれた素人の「小説」で、主人公が万引きをしたとしましょう。そこに、「万引きをするべきでない」という批判が読者から寄せられ、炎上して書き手の身元を調べられて顔写真が出回る、ということが起こるかもしれないのです。
本当に起こったらびっくりなのですが、現状を見ている限り、どうやら杞憂ではなさそうです。
本来、「芸術作品に書かれたことは、それが『事実』『体験』と銘打ってあったりでもしない限り、虚構であり、そのなかの出来事について作者は責任を問われない」(問われるにしても、実在する他人への誹謗中傷や児童ポルノなど、「表現の内容」ではなく「表現そのもの」が問題となる場合のみ)というのが正しいあり方のはずです。
いやむしろ、ちょっと小説を読んだことがある人なら、「これは私が実際に体験した話である」みたいな書き出しで始まる「フィクション」が腐臭を放つほど世に出回っていることはご存知でしょう。
だから僕は、「書かれたことは、異世界ファンタジー小説でもない限りはすべて真実である」という感覚からは距離を置くべきなのではないか、と思うのです。
たとえば昔の宇多田ヒカルのヒット作に『First Love』という曲がありましたが、これが高校野球の入場行進曲に使われる際、「歌詞に『タバコのフレーバー』というフレーズがあるため、ふさわしくない」という批判がありました。
しかし、これはもう寛容さと想像力の両方ともが欠乏していると言わざるを得ません。
あの歌詞には、「タバコのフレーバー」がした「最後のキス」の相手が、「高校生である」とはどこにも書いていないのですよ。
仮に「高校生のあなたの最後のキス」がタバコのフレーバー、とはっきり書いてあったとしても、ですよ、これは歌詞なんです、あくまで。
甲子園球場のモニターに「高校球児のみなさん、タバコを吸いましょう」みたいなCMを流すなら問題でしょうが、あくまで「歌の歌詞」なんです。フィクションですし、べつにタバコを吸うことを勧めてさえいないんです。なにが問題だと言うのでしょう、ぷんぷん。
1人称は筆者とは限らない! 繰り返す! 1人称は筆者とは限らない!
まあともかくとして、世の中にこれだけ素人の文章が溢れている世の中では、もうその内容が事実かどうかなんていちいち調べることは不可能に等しい状態になっています。「Yahoo! 知恵袋」に相談や体験談の体で投稿される文章だって、あとから「あれは嘘でした」という追記がされるありさまですからね。
そんななかで、「不用意な批判」や炎上から書き手の人権を守り、また、表現の自由を守り続けるために、ぜひとも「主人公≠筆者」という前提での教育を始めようではありませんか。
トム・ヤムクンでした。