命令至上主義と法至上主義

 
 
皆さんこんにちは。あなたの街の文系男子、トム・ヤムクンです
 
このブログでいつも歴史の話といえば日本史の話なのですが、今回は世界史レベルの壮大なスケールでお届けしたいと思います。
 
テーマは「日本人と西洋人の『神の扱い』の違いについて」です。
 
日本人の神とは日本神話に登場する天照大御神などの神道の神であり、西洋人の神は一応、ユダヤ教やキリスト教などの神エホヴァ(ヤハウェ)であるとここでは定義しておきます。
 
ここで僕が提起したい問題は、
 
「日本人は 神の命令に従い西洋人は神との契約に従う」
 
ということです。
 
 
 

どう違うの? 命令と契約

まず本題に入る前に、「命令」と「契約」の違いをはっきりさせておかなくてはなりません。
 
命令は、他者に何らかの強制をすること、あるいはそのための言葉、という意味ですよね。
 
この命令は、その人の意のままになるのがポイントです。「メロンパンを買ってこい」とかそういうやつですね。言われた側は、その相手に従う限り、その要求になんでも従わなくてはなりません。
 
対して、契約は、人と人、あるいは人と組織、組織と組織などのあいだで交わされる、一連の約束事、という意味です。
 
「BはAに対して、メロンパンを毎日1個、提供しなくてはならない」といったようなものです。
 
「命令」との大きな違いは、変更が効きやすいか、そして、AだけでなくBも縛るかどうか、という点にあります。
 
AさんがBさんに今日、「メロンパンを1個、買ってこい」と命令したとします。Bさんはそのとおりにしました。そして翌日、AさんはBさんに「今日はあんパンを2個買ってこい」と命令します。これ自体は、別に矛盾でもなんでもありませんし、Bさんさえ同意すれば、なにも責められる余地はありません。
 
しかし、以下のパターンならどうでしょう?
 
AさんとBさんがこんな契約を交わします。
 
 
 

食べたいものは毎日変わる問題

「BはAに対して、メロンパンを毎日1個、提供しなくてはならない。この契約は1年間、継続するものとする」
 
1日め、BさんはAさんに、契約通り、メロンパンを1個、買ってきて渡します。
しかし2日めに、Aさんはあんパンが食べたくなりました。
 
しかし、Bさんはあくまで、メロンパンを提供する義務しかありません。どうしてもあんパンを買ってきてほしければ、Bさんに頼んで、別途、新たな契約を結ぶしかないのです。
 
ここに、「命令」と「契約」の致命的な違いがあります。

 
 
 

命令は気まぐれで変えやすい

神が人に命令したらどうなるか。その命令は、容易に変更できます。「この前は仏教なんか導入しちゃだめって言ったけど、やっぱり寺を建ててよ。本尊は僕ね(ちなみに僕はもともと仏だったんだ。ただ、日本人にわかりやすいように神の姿をしてただけだよ)」
と、神がわがままを言ったとしても、人はそれに従わなくてはいけません。
 
しかし、「契約」であれば事情は違うのです。
契約はたとえその時は強い権力によって強いられたものであっても、一旦文章になった以上は 神と別個の存在になってしまいます。
 
神が人と、ある契約をしたとします。「羊を年に1頭くれたら洪水は起こさないよ」とかにしましょうか。しかし、「やっぱり若いロバを年に2頭ほしい」といったように契約の内容を神が後悔し、後から自分に有利なように変えたいと考えても、神ですらそれは契約であるから守らざるを得ないのです。契約、律法は人とともにいわば神をも縛ります。
 
 

だからどうだって言うのさ?

さて、この「命令」社会と「契約」社会の違いが、どのように現実の政治や社会に影響してくるのでしょうか。
 
日本人は政治の頂点にいるのは神そのもの――すなわち神の子孫である天皇でした。朝廷の支配下にあった人民は神から直接統治を受けていたわけです。
 
ここでは神との約束に従うというより、その命令を聞くという傾向が支配的だったため(なにしろ、神はその場にいますから、政治をあずかる平安貴族たちはいちいちおうかがいを立てることが可能だったのです)、逆に言えば「十戒」ような神も守るべき契約というのは存在しなかったと言っていいのではないでしょうか。
 
細かいことまでは調べきれませんが、その文言によって天皇を本格的・直接的に縛る法律というのは、おそらく17世紀の禁中並公家諸法度が最初でしょう(それより以前の例がありましたら、ぜひご教示いただきたいです)
 
これが日本人と西洋人の間に決定的な考え方の違いを生むわけです。
 
 

ジャック・バウアー関連の例で説明しちゃうよ

日本人は政治家や上司などに従い、たとえ法に反した命令をしたとしてもそれをやすやすと実行してしまうのに対し、西洋人はルールに従って行動し、それに外れた政治家や上司を公然と槍玉にあげて憚りません(偏見)。いや、すくなくとも、ルールを守り、ルールに支配されている、という意識は濃厚なはずです。
 
 
たとえば、ドラマ『24 -Twenty Four-』にこんなシーンがあります。

 
 
主人公であるジャック・バウアーらの所属する対テロ組織「CTU」に、あるスタッフAが再雇用されて戻ってきます。彼女は、つい先日、事情があってCTUをやめたばかりでした。
 
スタッフAには、いつもこき使っていた部下Bがいました。Aが戻ってきたとたん、Bは上司Cに対して、「彼女はいちおう新人なわけで、僕のほうが上役だよね」と確認をするのです。
 
日本であれば、これは形式的な役職がどうあれ、もとの先輩のいうことを後輩は聞かなくてはならないでしょう、たとえ一度辞めていた相手だとしても。
 
すなわち、キリスト教文化圏では、「契約(すなわち法・ルール)」が「命令(すなわちそれを発する人)」よりも重んじられる、という証拠のひとつといえるのではないでしょうか。
 
それぞれの文化にいいところはあるでしょうが、法や契約より人の命令を重んじる日本の風潮は、ブラック企業の蔓延などの諸問題に大きく貢献しているのは疑いありません(汗)
 
トム・ヤムクンでした。
 

トム・ヤムクン

ライフハックと手帳を駆使して作家を目指している人。得意分野は手帳と日本史。Twitterアカウント:@tomyumkung01 ※このブログはAmazon.co.jpアソシエイトに参加しています。